第2回
桜田門外の変
 

江戸城周辺のできごと

季節外れの春の雪がしとしと降る中、まず合図でもあるピストルの銃撃音が鳴り響き、十数人の浪士本隊による大名駕籠への抜刀襲撃が開始されました。突然の奇襲をうけた彦根藩は苦戦を強いられ、やがて守る人がいなくなり無残にも打ち捨てられた駕籠に本懐を遂げようと次々と襲撃者が襲いかかりました。
まずは刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりをして駕籠をさしぬき、続けざまに別な襲撃者の刀が駕籠に突き刺さりました。その後、駕籠の扉を開かれ息も絶え絶えな駕籠の乗客―江戸の大老井伊直弼―が引きずり出され、勝鬨の声とも言える雄叫びとともにその首が斬り落とされました、といわれています。
その間、わずか「煙草二服ばかりの時間」。十数分のでき事だったそうです。
近年、銃撃による死亡などもいわれていますが、戦いが凄惨だったこと、そして双方が強い政治への思いを抱えていたことに変わりはありません。
その十数分で雪により白かった大地は激しい乱闘により赤い血にそまり、長い江戸幕府の幕末政治を支えてきた井伊直弼の死により、日本は明治へと動き始めることになります。
これが有名な桜田門外の変です。

今ではたくさんの海外からの観光客にあふれ、ジョギングをする人の姿がちらほらと。そののどかな光景からはその凄惨な事件の面影は感じられません。
しかし、今から158年前の1860年に確かにその事件はありました。
今回は皇居のまわりをふらりと歴史探索のお散歩にいってきました。

 

幕末の偉人、大村益次郎に会う

まずは靖国神社の大村益次郎像の銅像からスタートです! 前回の連載でふれた上野戦争の立役者でもあった大村益次郎はその上野戦争でも発揮したように軍事的な才能があり、明治維新後も徴兵制の施行や兵学校の併設などを説き、のちの帝国陸軍の基盤を作りました。靖国神社は、戦前は陸軍省の管轄だったため、その働きを顕彰され日本最初の西洋式銅像として作られたのでした。

いざ、桜田門へ

靖国神社をぬけ皇居へ向けてオフィス街の皇居九段下エリアをぬけていきます。
まずは第一目的の桜田門に到着!のどかな景色の中で、かつて日本の分岐点となる大きな事件がここで起きていたことが信じられませんでした。

 

この桜田門と目と鼻の先に、事件当日に井伊直弼の駕籠が出立した井伊屋敷跡があります。
今は静かな公園となっており、当時の面影はほとんど忍ぶことはできませんでした。しかし、江戸時代に使われていた井戸は残っており、少しだけ江戸の香りを感じることができました。

なんと、またもや休園日

さらにてくてくと皇居を歩いて行くと江戸城の天守台にのぼることができます。
できる‥のですが、なんとこの日は休園日でした……。一回目の連載に続いてまたもやの休園日です。
これはまた来た時のお楽しみということなのでしょう。月曜金曜と、祝日の場合はその翌日がお休みになってしまうのでお気をつけください。

桃ちゃん、往時を偲ぶ

最後に、井伊屋敷から桜田門をみながら……その距離わずか400メートルという短い距離。街並みは変われどもお堀という特性上その地形はほとんど当時のままです。その日、井伊直弼に警告は入っていたのに彼はそういった謀に狼狽えている様子を見せてはいけないと通常の警備で桜田門へと向かったそうです。彼は何を思い、この道を通って運命へとむかったのでしょうか。そんな歴史の姿に思いを馳せる皇居散歩もいかがでしょうか。

伊藤 桃(いとう・もも)
青森県野辺地町出身、3月11日生まれ。テレビ、ラジオ、雑誌等での活動のほかに、
趣味の鉄道旅(JR全線100パーセント完乗)を活かした“鉄道タレント”としても活躍中。